母の死

世界中が大きな渦に巻き込まれていくそんな情勢の中、
旅行業全体の収益は落ちていき、
その影響は私にまで及ぼされました。

オペレーターとして一番脂の乗っている時期に
減給を宣告決定された私は、即座に退職を決めました。

旅行は好きでしたが、
人として尊敬できない、仲間になりきれない会社の面々にも
ほとほとあきれてしまったのです。

私は、人として尊厳のある人たちと一緒にいたい。

尊敬できる人とでないと嫌だ!!

私の魂が叫び出したのです。

その後、大手企業の営業事務に
派遣社員としてすぐに採用が決まりました。

とても大好きな上司(父のように娘のように過ごしました)
・先輩・社員の女性に囲まれて、生まれて初めて
「ここに居たい」と思える職場を得たのです。

給与も上がり、安定しました。

持ち前の元気さと行動力の高さが評価され、
派遣切りが相次ぐ中、派遣社員でありながら
結果的に7年もこの場所に落ち着くことになりました。

でも、この会社に入社して数ヵ月後・・・

母のガンが末期の状態で発見されたのです。

衝撃が隠せませんでした。
怖くて怖くて仕方がなかった。

人が死ぬ

しかも自分の母親がその渦中にいるのかと思うと
いても立ってもいられず、
私は何をしたらいいのか毎日泣き、悩み、苦しみ、
でも周りにそれを気取られまいとして、
日々いつもどおり明るい笑顔で
会社での業務に打ち込む事で対処しようと必死でした。

そして・・・

私自身が過労で入院してしまったのです。

なんて情けない。
そして父に大きな心配をかけ
二つの病院を行き来させるありさま。

もう自分はなんでこんな事をしているんだと、
点滴をうけて寝転がっている自分が嫌で嫌で仕方がなかったのです。

でも一つだけ良い事がありました。

それは私の担当看護師が、
偶然にも、高校卒業から一度も会っていなかった同級生だったことです。

彼女の存在にとてもとても救われました。
毎日他の患者さんのところよりも多く顔をだしてくれていたのは一目瞭然。

ああ、白衣の天使って本当に・・・って感じました。

いろいろな人に生かされて生きているんだ・・・
そんな風に本気で気づき始めた瞬間があった時期でした。

そしてそれから・・・
あっという間の時間でした。

母が他界するまでにそれほど長い時間は要しませんでした。

生まれて初めて、本当に自分がどうしていいか、
全く分からなくなってしまった私。

頭の中が真っ白で、
空白の時間と空間が目の前に広がっていて、
私の手も足も白くなってしまいそうな勢いでした。

母はそれほどに私にとっては、
母であり、姉であり、親友のような存在でもありました。

何もかもが嫌になり、
そして、何よりも、私は・・・

母のために何も出来なかった自分自身を
ひどく罵り、呪い、傷つけました。

母のために何もしてあげられなかった。

一人娘なのにも関わらず、結婚する姿も見せてあげられなかった。
もう、今思うだけでも苦しくて仕方がなかった自分を思い出します。

本当に本当にどん底の時期だったと思います。

でも・・・このときから私の再生の物語は、
新たな展開と息吹をあげはじめていたのです。