ASACOとは、どんな女なのか?

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霊媒師、スピリチュアルカウンセラー・ヒーラー・ティーチャー
そして魔法学校校長という役割をになってからどんどん変化躍進してきました。

わたしはどんな経緯でここへ辿り着いたのか。
それがみなさんに少しでも伝わったらいいなって思っています。

栄養士時代に学んだこと

私は20代のころから、長いスパンで、平行していくつもの仕事をこなしてきました。

子どもの頃からしっかりと志を持っていた私が、
「栄養士になる!!」と決めたのは、中学3年生の時でした。

20歳ではじめて世の中に出たときは、
今では有名な赤い看板のカラオケを子会社に持つ給食会社に栄養士として就職し、
様々な形で全国の病院給食・医療関連施設の給食に携わってきました。

その傍らで補正下着のサロンでアルバイトを始めます。
いろんな事を経験したかった・・というと格好いいのですが、
当時の私はかなり太っていて、
175cmくらいのがっしり系の男性ぐらいの体重がありました。

わらにもすがる思いでいろいろなダイエットを試しては、
挫折リバウンドを繰り返し、自分には何も出来ない・・・と
落ち込む毎日でした。

表面では明るくひょうきんに振舞っていても、
心の中では自分を責め続け、自分の醜い容姿を嘆き、呪い、
その挙句に周りの友達をこっそりと羨む毎日でした。

今の私から考えると、ハッキリ言って最悪の女の子です。

さらに・・
人を癒そう、病気を治すお手伝いをするんだ・・・

と思って入った医療業界でしたが・・・
その実態は本当にひどいものでした。

アメリカやドイツなどの先進医療国と異なり、
栄養士の立場は低く、かつ重労働で、下働きのような環境。
そして、委託側の栄養士と施設側の栄養士との溝と確執。

実践経験が少なくても
4年生大学を卒業して免除試験で管理栄養士をとった人が上位に立つ・・という、
非常に古くて非現実的な状態を目の当たりにしていきました。

管理栄養士が指導をしても、結局は自宅で実践が出来ずに
再び入院してくる患者さんを沢山見ているうち、
感じてしまった強い気持ち・・・。

病院の食べ物で癒されている人なんて居ない・・・

その状態が刻々と鮮明にわかってきたころ、
古い友人から、ある相談がもちこまれました。

妹さんが精神的理由から拒食症になり入院。
健康的なスポーツ少女だった子が39キロの骨皮筋子さんです!!

何も食べなくなったその女の子は、
病院と母親を全く信じず、母親の作った食事も全く受け付けません。

そして、私は言われてしまったんです・・・
多感な時期の少女に・・・

「先生はデブだから、デブの言う事なんて聞けないし。」

その一言で一念発起。

私は彼女と「ある約束」をすることにしました。

―私は10キロダイエットする、彼女は10キロ太る―

その約束の日から、二人三脚の栄養指導が始まりました。

楽しんで食べること、食べることは生きること

本当にそれを実感した22歳の終わりでした。

彼女とお互いに目標をクリアしながら進む生活は、病院の仕事と同時並行。
とても苦しくて、忙しすぎて、若さを武器にしても疲れが溜まる。
そんな生活をしていました。

が、彼女も私も半年でその希望を叶え、
喜ばしいことに、その彼女はそのあと私の母校を受験し、
見事に管理栄養士にまでなりました。

その結果を受け取るころ、

もっと人が癒される形で何かをしたい、自分で結果を出したい・・・

そう強く感じるようになっていきました。